待つということ

とにかく待つことが当たり前のイタリア。大学の授業は開始時間には始まらない。だいたい15分後から始まって、un quarto d’ora accademicoという表現がある。教授が遅れて教壇にたち授業が始まった後も、チョロチョロと入ってくる遅刻の生徒がいるものの、あまり恐縮している様子もなく堂々と入ってきたりしている。教授もぜんぜん気にしない。

日本の銀行の窓口、5・10日や月末はいつも混んでいた。番号札を持って待つ人たちは静かだったけれど、「まだですか。もう15分も待たされました。」という空気がムンムンとロビーに満ち満ちていたのを覚えている。それに比べて、イタリアの公共施設での待たされっぷりはすごい。最近でこそ大分待ち時間が短縮されたものの、郵便局で振込み一つするにも30分くらい平気で待たされる。おおよその客数は銀行の頃の半分以下だけれど、待ち時間は倍以上。よく観察してみれば、一人の処理が終わると係員が席を立ってコーヒーを片手にもどってきたり、離れたカウンターに行ってチョコレートを食べながら係員同士で歓談している!!ロビーはもちろんワイワイ・ガヤガヤしていて、文句もブーブー聞こえる。ところが、空気がなんだかユルい。銀行のロビーで感じたような静けさに身をやつした怒りの絶叫がどこにもない。何やら文句のある者同士、話に花が咲いちゃったりしている。

電車もバスも遅れる。長距離電車になると、3時間くらい余裕で遅れる。3分の遅れでお詫びのアナウンスが流れる新幹線は、さながら宇宙の話。遅延に腹がたつけれど、故障して電車がキャンセルになるより、遅れて着いただけまだ運が良かった。あ、よかった。乗換の電車も遅れていた。ラッキー。

時間の流れがまったく違うイタリア。銀行からお金を引き出して、区役所で戸籍謄本をもらって、それを電車にのって大学に持っていって、帰りに図書館で本を借りる。日本では全てが当たり前に半日でできたけれど、イタリアではすべてが異なる。銀行に行ったらATMが故障していて、区役所の戸籍担当者は欠勤で、電車はストで走っていなくて、バスを乗り継いで大学についたら学生課はもう閉まっていて、図書館はシステムエラーで貸出中止…。そんなことが平気であって、泣いても怒っても何も変えられないから、ずっとプンプンしているのが馬鹿らしくなってしまう。イタリアに来てちょっぴり大らかになれたのは、「何でも機能するのが当たり前」の国から、「何にも機能しないのも当たり前」の国に来たからかもしれない。